Zakkan (雑感)

趣味の雑感。
あれから2年
新潟県中越地震から、早2年が経過した。

思い出せば2年前、当時も昨年もブログをやってなかったので、そのときの話をここに記す。

10月23日は土曜日で、勿論私は兵庫県の自宅にいた。その日は半日勤務で、朝食後、妙に朝焼けが真っ赤なのを妻と話した記憶がある。まさに、阪神・淡路大震災の当日の夜明けは、空が赤紫に染まっていたという事例が報告されたのと同じだ。(磁場の変動によるものらしい)震災から9年、そんことはすっかり忘れていた。それが予兆だったことになる。

そして夕方、17時56分。地震が発生した。夕食を食べに行こうと店の駐車場に到着した時に、私の母から電話があった。車のラジオをつけると、新潟県で強い地震があったと伝えているだけで詳細は伝わってこない。その中で、新幹線が脱線しているという情報に、これはただ事ではないと思った。
あわてて引き返し、家のテレビをつける。依然、妻の実家には連絡がつかない。新潟県中越地方で壊滅的な被害という情報。実家は下越地方で、震源から遠いようだ。しかし中越地方、長岡、十日町、小千谷などには友人や知人がいる。電話をしようかと思ったが、直後は混乱するので控えることとした。(かなり後日、安否確認が取れた)

阪神・淡路大震災の時よりも情報は迅速に伝わっているはずだが、1995年当時、私は兵庫県に居らず、唇を噛み締めて報道を見たその時と同じ思いになった。

夜遅く、実家と連絡がついた。被害はなかったが、かなり揺れたらしい。

翌日の報道で、見慣れた山河の変わり果てた姿に唖然とした。
よほど現地へ行こうかと思った。しかし、身内は被災しておらず、「どうぞ行ってらっしゃいと」すぐに代替がいるような会社ではないので断念した。

しかし、地震から2週間後、祖父が老衰により逝去した。葬儀のため、新潟入りすることになったのである。11月7日(日)、私は絵画を渡すため、加西市の、とある方のお宅にいた時、訃報の連絡が入った。直ちに帰宅し、準備して旅行会社カウンターで飛行機の空席を調べるが、あらゆる交通網が遮断されているため満席。時間は覚悟で新幹線と代行バスを利用することとする。
姫路13:52発の「のぞみ」で東京へ。東京から上越新幹線に乗る。勿論、新潟県に入って最初の駅、越後湯沢までの運行。19:30頃だろうか、越後湯沢到着。ここから先、長岡まで新幹線は線路が崩落しているのでバスに乗る。
ホームに出ると寒い!この寒さの中で避難所は限界を超えていると思うと胸が痛む。
最終1本位前の代行バスのようだった。長蛇の列で乗り換える。神戸市灘区のガレキの中で鉄道代行バスを待ったのを思い出す。
バスは復旧した関越道に入るがスピードは出ない。と、思いきやものすごい段差。救援のための突貫工事をしたからだろう。窓の外は真っ暗。まだ停電しているのだろうか。長岡市内に入る。所々、歩道が陥没していた。しかし、明かりは煌々と灯っており、ヤマダ電器も営業している。救われた気分になった。
長岡から再び新幹線に乗る。結局22時頃、実家へ着いた。祖父はすでに棺の中で眠っていた。

祖父を送った2日後、私は先に独りで帰る。再び長岡からバスに乗りかえる。あちこちで山肌が露出しているのが地震の爪痕だ。青いビニールシートが目立つ。当時の神戸の様子と重なった。山は紅葉が始まっているが、これから被災地が厳しい季節を迎える印だと思うと、安穏と眺められない。

越後湯沢に到着し、新幹線を待つ。すると「おめでたです」というメールがきた。娘は祖父の生まれ変わりだった。

土砂崩れから奇跡の生還を果たした男の子も、もう4歳になった。大きくなった姿が、今日のニュースに映っていた。いつも口を空けている様子は当時のままだ。しかし、復興にはまだ遠い道のりが残されているような気がする。

喜ばしい話もある。旧山古志村の小学校の教員をしていた長岡市出身のIさん(妻の先輩)は、被災地にボランティアで名古屋からやってきた方とご縁があり、今年めでたく結ばれたという。
すばらしい話で、何だか披露宴の席で牛の角突きでも催したいような気分だ。(実際にやったら大変なことになるが)

まさに、命と人の絆を実感した2004年だった。私は何もしなかったのが情けないが・・。
「がんばってます!新潟」という新幹線に貼られていたステッカーを今も思い出す。

| Rail&Hand | - | 20:59 | - | - |
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