Zakkan (雑感)

趣味の雑感。
15年
今日で阪神・淡路大震災から15年の歳月を迎えた。
早いものでというよりも、つい先日の出来事のように感じる。

前代未聞の大災害によって鉄道も壊滅的な被害を受けた。その記憶を辿ってみたい。

当時20歳の私は新潟市内に住んでいた。

私は生協プレイガイドでJRの端末を操作して切符を手配する、趣味を生かした?アルバイトをしていた。ここにも連日、神戸地区のJR運行状況のFAXが届いた。徐々に運転区間が神戸市街地へ延びていった。

神戸市内を通過するJR線は74日間の不通を余儀なくされた。
大阪以東から神戸経由で姫路以西へ通しの乗車券を所有する場合、途中で改札を出ないことを条件に福知山・和田山経由或いは谷川から加古川線経由の迂回が認められ、特急・急行の自由席は乗車券のみで利用できた。

また、九州方面への夜行列車が全面運休したため、京都〜和田山〜姫路経由の臨時夜行列車「なは81号」が運行された。こちらの乗車券は迂回扱いとはならなかった。この頃はまだ夜行列車の需要があったことを示しているようだ。

アルバイト先では関西へ向かう人への交通案内に苦渋した。
まだインターネットは普及しておらず、十分な情報が入ってこない。代行バスの待ち時間、所要時間、乗り場、迂回ルート・・。
特に留学生への説明に気を遣った。

ちなみに時刻表1995年2月・3月号の大阪〜姫路間は通常ダイヤが印字されているものの、グレーで網掛けが施してあり、一部運休区間があり現地で確認するように注記してあった。


帰省時、現地へ行ったのは2月に入ってからのことだった。

その際、和田山経由・迂回ルートを利用したことがある。
播但線には臨時快速列車が多数運転されていた。運行開始から間もない「スーパーはくと」の転用や、はるばる東北地方から動員されてきたディーゼル車両もあった。
和田山乗り換えの山陰線の急行「丹後」共々、デッキまで大きな荷物を抱えた人で超満員。雪の中、所要3時間以上の辛い迂回だった。あんなに混雑した和田山駅を見たのは最初で最後だろう。
新幹線も道路も含め、阪神間の大動脈が寸断されていたので無理もない。


JR神戸線は4月1日に、新幹線は4月8日に復旧を遂げた。これは全国から応援が駆けつけたJRのなせる業で、物流の要が最優先で復興した。余震と寒さの中、過酷な工事だったことは想像がつく。
特に高架橋が落下した灘〜住吉、東灘区付近では、強度を最終確認をするため、4本の線路上を電気機関車の列が同一方向に並んで走る様子が報道された。当然、通常の営業運転ではありえないことで、復興への印象的な光景だった。遠い街からテレビで伝え知った私にでも大きな励みになった。
4月1日・初日は徐行により結構遅れていたのを思い出す。
一方で阪急・阪神などは元の線路状態に戻るまで最大8月まで要している。



当たり前に電気が灯り、蛇口から水が出て、温かいご飯が食べられて、そして電車も時間通りにやってくることがどんなにありがたいことか。
そして、的確な情報が得られること。阪神・淡路大震災を契機にインターネットの普及が加速したという。私が自宅にネットを引いたのはその5年後だったが。

そんな中、南米ハイチでも大地震が発生している。この時期に当時のような映像を見ることは忍びなく、自然災害の脅威を感じずにはいられない。
そしてサンテレビの報道こそ、地元ならではの取り組みだと思ったりする。

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