Zakkan (雑感)

趣味の雑感。
急行
城崎と餘部(アマルベ)橋梁の話で思い出した。

今から25年位前だろうか。家族で鳥取方面へ旅行したことがある。当時、すでに高速道路網が充実しつつあったが、大阪から山陰方面への連絡は、福知山線や播但線、姫新線がまだその役目を果たしており、様々な特急・急行列車が運転されていた。

往路は姫路から大阪発鳥取行急行「但馬」に乗車した。姫路駅で向きを変えた列車は播但線に入る。当時の播但線内のことはよく覚えていないが、生野の分水嶺を越えて日本海側に抜ける路線だ。後年、阪神・淡路大震災により神戸の交通網が不通となったとき、大阪方面への迂回ルートとして、満員の列車に乗った記憶の方が大きい。和田山から山陰線に入り、豊岡、城崎を過ぎて、その餘部橋梁を渡った。車内からの眺めは高い鉄橋というだけで、あっという間に通過した。車掌さんによる、鉄橋の案内放送があったのを思い出す。10年前、初めて現地を訪問したが、改めてその威容に驚いた。

復路、鳥取からは、因美線・姫新線経由、大阪行急行「みささ」に乗車した。名湯、三朝温泉に由来しているようだ。津山までは岡山行の「砂丘」と手をつないで走り、津山からは大阪行「みまさか」を連結する。国鉄時代はこのような連結を繰り返して目的地へ向かう列車が多く見られた。

さて、復路の路線では、昔ながらの腕木式信号機が使用されていた。腕木式信号機とは、青・黄・赤の電球信号ではなく、てこで可動させる捧の傾きで進行・停止を表示するもの。昔の山田洋次の映画に出てくるかもしれない。これは全て駅員の人力による、アナログ運行管理である。ゆえに列車の正面衝突を防止するため、2駅間を走る列車には「タブレット」という金属の玉を通行許可証代わりに持たせた。(これを閉塞区間という)玉はワイヤーの輪がついた革のケースに入っており、受け渡しがしやすいようになっていた。急行列車等は、駅を通過しながら駅員に投げ渡した。高速化とは無縁の原始的な手法で、駅を通過する度にノロノロ運転となった。特に因美線では10年位前まで使用されており、末期は鉄道マニアの注目を集めた。
子供の頃は自宅近くにもあり、信号機がガチャンと動くのを見るのが好きだった。信号機は棒が可動するもので、キップは厚紙で出来ており(硬券という)改札挟で切るものだった。それも忘れてしまうほど時が流れた。

急行とはいえ、普通車は4人がけのボックス席だった。今では時代遅れだろう。それでも車内販売があり、行楽客で賑やかだった車内は今では想像がつかない。相席のおじいさんからキャラメル(多分ハイソフト)をもらったのを覚えている。「旅にハイソフト」というのはまさにこの気分だ。あの茶色い箱はまだ売っているのだろうか・・。ハイソフトを舐めながら、茅葺き屋根の集落をゆくローカル線。その中でも一番偉い「急行」とあって、胸を張って走っているようだった。
いつの間にか「急行」という種別もあまり聞かなくなってしまった。

そして現在、前述の急行列車は全て無くなってしまったが、近畿〜鳥取方面への連絡は新たに開通した智頭急行線を経由する特急列車により、当時の1/2近い時間で結ばれている。やはり快適さは現代に叶わないので、ノスタルジーは思い出だけで十分だと思ったりする。
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