久しぶりに旧道ネタでございます。(旧道ファン諸兄の熱いエールにお応えするかのように?)
〜自然に還るスノーセットに先人の苦闘を偲ぶ塩の道〜
長野県松本市〜大町市から新潟県糸魚川市へ至るルート(千国街道・松本街道)は別名「塩の道」と称される。
塩の生産を塩田に頼った古代、内陸部で塩は生活必需品であり貴重品だった。このルートこそ、日本海と信濃国の交易に活躍したという。
上杉謙信が宿敵・武田信玄に塩を贈ったとされる伝説もある。
大町市〜糸魚川市の区間が、現在の国道148号。
特に、白馬村〜糸魚川市の日本海側へ抜ける区間は、フォッサマグナの直上に位置し、北アルプスの裾を縫うように流れる姫川に沿って険しい道のりが続く。
歴史、地質学、自然、交通、すべてにおいて興味をそそられる土地だと思う。
特に近代交通史を語る上では外せない国道148号・県境付近。
初めて国道148号沿線を見たのは、高校生の頃、青春18きっぷで旅したJR大糸線の車内からだった。恐ろしく急峻な地形に続く雪よけの赤いスノーシェッドが印象的だった。
縁あって新潟へ住むことになり、その時出会った先輩のクルマに乗せてもらい国道148号を初めて通過した。1993年当時、現道は完成しておらず、とても国道とは思われない九十九折の坂道と狭いスノーシェッド、直角カーブ・・大型車とのすれ違いに肝を冷やした。まだ自動車免許がなかった私にとっては恐怖の世界だった。
やがて長野五輪が決定し、国道148号も本格的な改修工事が進められた。あの、険しい県境の区間は旧道になるのか。
ところで、JR大糸線と言えば、バブルの時代、関西から白馬方面へのスキー客を受け入れるために行き違い設備増設など、各種設備投資がなされた。冬場はブルトレから気動車まで多彩な臨時列車が、この山岳ローカル線を走っていた。姫路発・南小谷行という凄まじい列車もあったな。
今思えば冬季の国道148号の不便さも影響していたのかもしれない。
ウインタースポーツの低迷もあり、1999年頃までには、白馬方面のスキー客は糸魚川からバス連絡となり、ほどなくスキー列車「シュプール号」自体も廃止されてしまった。
その大糸線・国道148号沿線に震撼させられる災害が発生した。
1995年7月11日。長野県北部・新潟県上越地方の集中豪雨で、脆弱な地盤のこの地域で土石流と地滑りが多発。姫川は大氾濫。国道148号と大糸線もろとも壊滅的な被害を受けた。
県境に架かる新「国界橋」(こっかいばし)は、竣工から1年も経たないうちに自然の猛威に屈し、破壊されてしまった。河床は完全に変形し、復旧まで3年近く要する事態となった。鉄道沿線で言うと大糸線の平岩付近。
ここで、白羽の矢が立てられたのが旧道だった。斜面にへばりつくように架かる赤いアーチ橋こそ、旧・国界橋。昭和12年竣工。こんな場所に建設するのはさぞかし難工事だったことだろう。
(他サイトより)
現道とかなり高低差がある。国界橋から糸魚川寄りの旧道・葛葉峠も崩壊しているため、旧道へ上がる連絡ルートを建設し、迂回路として機能させた。
迂回が長期戦になってから連絡ルートは多少整備されたが、当初は突貫工事で凄まじい急勾配だったと記憶している。
友人のクルマに同乗して訪れたが、1速に落とさないと登れない。しかも二次災害の危険があるため、迂回路は夜間通行止で、ゲートがあったと記憶している。
60年以上風雪に耐えてきた旧道が非常時の迂回ルートとして復活した、災害の禍根とはいえ、道路行政の底力というか、先人の偉大さを痛感した。
1998年。流出した新・国界橋の位置に新々国界橋が架橋され、旧道は再び眠りにつくことになった。
被災した姫川温泉郷も多くが移転、廃業し、集落は寂れてしまった。
その旧・国界橋周辺を訪問したサイトがあったので掲載させてもらう。
急峻な谷を跨ぐ美しい幾何学。
草木に覆われた県境標識に胸が高鳴る。
灯りの点かない信号機に息を呑む・・
この場所が、現道への連絡ルート分岐点。
という訳で通好みのサイトです。
http://www.roadjapan.info/
現在、事実上旧道だけで県境を通過することは不可能となっている。まったく人家のない場所にも関わらず、復旧工事は細々と行われているようだ。
もしかして、姫川近くを走る現道が被災した際のバックアップにすることを考えているのだろうか。
ちなみに長野県側、小谷村中土付近の旧道は集落があり、生活道路の一部となっているので安泰と思われる。
最後に国道148号を訪問したのは2005年。
現道の国界橋付近には慰霊碑と7・11水害の教訓が記してあった。
「塩の道」を築いた先人の苦労を偲ぶ。