Zakkan (雑感)

趣味の雑感。
12年の歳月
1995年1月17日、阪神・淡路大震災から12年の歳月が流れた。再び亥年が巡ってきたことになる。
追悼特番も少なくなった。街は綺麗に復興し、当時の出来事は風化してしまいそうだが、被災された方は12年ひと巡りしてやっと言葉にできる事もあるだろう。

1995年1月当時、20歳の私は新潟市に在住。前日16日、連休を利用して遊びにきた両親を新潟駅で見送ったあと、偶然友人に会い、夜遅くまでふらついて帰宅した。
17日は寝坊した。当時住んでいたアパートの大家さんが、ニュースを見てたたき起こしてくれた。「すぐにテレビつけて!」
映し出される光景に唖然とした。当時は携帯電話など普及していなかったから、実家に連絡がついたのは夜遅くだった。(幸いにも実家のある兵庫県西部に大きな影響はなかった)

それから2週間ほど後、帰省した。夕方、大阪駅に到着するといつもと変わらぬ光景、街の明かりが賑やかで、とても神戸が被災しているとは思えなかった。そのとき、電車は芦屋までしか運転されておらず、半信半疑のまま西へ向かう。乗客は、ブルゾンを着てリュックを背負い、荷物を抱えた人が多い。兵庫県に入り、尼崎を過ぎると明かりが少なくなってきた。暗くてよく分からないが、ガレキのような物が見えた。芦屋からバスに乗り換えるが、そこで初めて状況を知った。つい1ヶ月会前に見た風景が、戦場のようになっていた。倒壊した高速道路は、すでに撤去が始まっていた。三宮のデパート「そごう」が二つに割れていた。再び神戸から電車に乗ると、新長田の市街地は何もなくなっていた。そして、明石から先は、いつもと変わらぬ夜景に戻った。
以上の出来事は、今までよく話題にしてきた。

今となって語られることは、非常に重い話だが、実は高校の同級生が亡くなった。知ったのは同年、ずいぶん時間が経ってからのことだ。遠方に住んでいた私は知らなかった。
私は1999年まで兵庫県から離れていたので、震災の現実から逃避するには都合が良く、その間は享楽的に過ごした。しかし、そんな自分がトラウマになって、テレビ等の報道を見るのが辛くて仕方なかった。特に同年は、会う人皆口々に「地震の被害は大丈夫ですか?」尋ねられた。(北の人は優しいので)しかしこれが意外にも負担だった。
それでも、何よりも感動したのは、同年、地元球団「オリックス・ブルーウェーブ」が優勝した事。「がんばろうKOBE」ユニフォームのイチロー選手。頼もしかった。そして故・仰木監督。

しかし近年、2004年は新潟県中越地震、新潟水害などの大災害を目の当たりにした。今度はゆかりある新潟で再び・・。まさに1995年の記憶が蘇って、再び現実から遠い場所にいる自分が苦しくなった。

21世紀に入り、「人と防災・未来センター」という施設が神戸市内にできた。阪神・淡路大震災の教訓を伝え、防災教育に努める施設。当時の写真や物品が多数展示されている。とにかく、あの光景を直視するのが辛くて足を運ぶことができなかった。
10年目の一昨年と、12年目の今年は、多くの人にとって、区切りの年、という印象が強いようだ。私は被災こそしていないが、12年の歳月を経た亥年、今度こそセンターをゆっくり見学する時がやってきたようだ。何時やってくるかわからない、南海地震にも備えなければ。

決して記憶から消えることのない1995年を。


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