2008.04.27 Sunday
15years
新潟へ移住したのは15年前。そして、「鉄道研究部」というものに出会ったのもちょうど15年前。
4月は新入生歓迎の季節。屈強な体育会系男子学生がプラカードを持って、
「あ〜君、もう部活は決めた?」
「テッケンです」
「テッケン?うちの部にしなよ」
「いや、だから、電車の鉄研です」
「・・・」
「拳」と間違えたらしい。同じ鉄でも「道」は対照的に軟弱だ。
その当時に出会った方々とは、“♪ど〜んな〜にな〜がくご無沙汰をしてても〜”竹内まりや「forever friends」の如く、変わらぬ付き合いが続く。今となっては、鉄研は人生最大の道草となった。
その、15年をテーマに当時の出来事を時々振り返ってみようと思う。(先日から小出しにしているが)
1993年5月1日。磐越西線
磐越西線は、新津〜会津若松〜郡山と、日本列島を縦割りに結ぶ路線。昭和に入って上越線が開通するまでは、東京から新潟への最短ルートだった。
現在は蒸気機関車も走る観光路線だが、この時はまだ普通のローカル線だった。しかも1往復だけ客車列車が残っていた。
初めての磐越西線、新潟から会津若松への日帰りひとり旅。しかもこのときはフリー乗車券など存在せず、普通運賃を学割で購入した。
その旅を辿ってみたい。
客車列車〜50系レッドトレインは、1992年3月まで地元の播但・姫新線など姫路近辺で活躍していたが、結局1枚も撮影しないままに終わった。この頃は多感な年頃で(?)鉄道への関心が薄かった。それが今となっては後悔の念。
そんな惜別の想いから、磐越西線の客車に乗車した。(同線の客車は1995年12月廃止)
会津若松からの帰り、日出谷駅で下車。客車列車は15時頃に新津から会津若松へ向かい、翌朝戻るダイヤなので迎え撃ち乗車となった。
新潟・福島県境に近い日出谷駅は現在、ホーム1本の無人駅だが、往時は蒸気機関車の給水や列車の切り離しを行っていた。駅前旅館も残っている。
こんな山間の駅に何と駅弁の立ち売りのおじさんがいた。その生き証人でもある。
(今では同駅の駅弁「とりめし」を“SLばんえつ物語号車内”で予約販売している)
中途半端な時間帯に県境を越える乗客はおらず、ほぼ貸切状態でマニアは私くらい。山間をのんびり走る。DD51形ディーゼル機関車は客車4両を軽々と引っ張っていく。青い椅子に体を委ね、窓を開け、レールのジョイント音を聞きながら至福の時を過ごした。
トンネルが近づくと、汽笛が「ピョー」
停車すると静寂が訪れ、乗客の靴音が「コツコツコツ」
発車時は、車掌の笛が「ピー」
そして連結器のショック。「ガチャン!ガチャガチャ」
会津盆地に下ると、蔵と残雪が夕日に照らされる。この風景は今も変わらない。
喜多方に到着。終点まで行きたいが、新潟方面への最終列車の関係で、ここで下車。待ち時間に喜多方ラーメンを食べた。
写真に高校生の姿が見えるが、おそらくほとんどの人がお母さんになっていることだろう。
保存運転されている蒸気機関車の旅もよいが、こんな前近代的な列車の旅も捨てがたい。もういちどディーゼル機関車の牽く列車に乗ってみたいと思うのは私だけではないかも。