2009.05.13 Wednesday
紫雲丸
1955年(昭和30年)5月11日午前6時56分
宇高連絡船「紫雲丸」
濃霧の瀬戸内海上、女木島付近で「第三宇高丸」と衝突・沈没。犠牲者168名を出す最悪の海難事故となった。しかも犠牲者の大半は修学旅行の児童だったという。
当時としては、タイタニック号、洞爺丸に次ぐ、深刻な海難事故だったという。
宇高連絡船は青函連絡船と共に国鉄が運営する航路で、船底部分の甲板には鉄道車両を搭載できる構造だった。事故以降、車両航送は貨物に限定され、旅客は船室に入る決まりになった。(現在のカーフェリーも運航中に車両甲板へ立ち入ることはできない)
そしてこの事故を契機に瀬戸大橋の建設機運が高まったという。
以後33年、本四連絡を瀬戸大橋に引き継ぐまで、宇高連絡船の人身事故はなかった。
ところで船名の「紫雲」という言葉の意味は「紫色の雲。仏教で、念仏を行う者が死ぬとき、仏が乗って来迎するとされる雲」とあり、決して縁起の良いものではない。正式には高松市内の山の名前から命名されたそうだが。
しかし事故の衝撃は大きく、香川県内の学校の中には、瀬戸大橋開通まで本州方面への修学旅行を控えたところもあったという。
この事故について調べるうちに昭和中期・その時代が抱えていた同和問題を痛感することになった。
安置所では事故で犠牲になった生徒の名前が記してあったが、それを読もうとせず、ただ我が子の名前を呼び続ける親の姿があったという。現実としてあった「識字」。識字学級や夜間学校など普及していなかった時代。これも悲しい出来事。
瀬戸大橋を渡る時、私達は過去の惨事を忘れてはならない。
少し遅くなったが5月11日は紫雲丸事故の日だった。
宇高連絡船「紫雲丸」
濃霧の瀬戸内海上、女木島付近で「第三宇高丸」と衝突・沈没。犠牲者168名を出す最悪の海難事故となった。しかも犠牲者の大半は修学旅行の児童だったという。
当時としては、タイタニック号、洞爺丸に次ぐ、深刻な海難事故だったという。
宇高連絡船は青函連絡船と共に国鉄が運営する航路で、船底部分の甲板には鉄道車両を搭載できる構造だった。事故以降、車両航送は貨物に限定され、旅客は船室に入る決まりになった。(現在のカーフェリーも運航中に車両甲板へ立ち入ることはできない)
そしてこの事故を契機に瀬戸大橋の建設機運が高まったという。
以後33年、本四連絡を瀬戸大橋に引き継ぐまで、宇高連絡船の人身事故はなかった。
ところで船名の「紫雲」という言葉の意味は「紫色の雲。仏教で、念仏を行う者が死ぬとき、仏が乗って来迎するとされる雲」とあり、決して縁起の良いものではない。正式には高松市内の山の名前から命名されたそうだが。
しかし事故の衝撃は大きく、香川県内の学校の中には、瀬戸大橋開通まで本州方面への修学旅行を控えたところもあったという。
この事故について調べるうちに昭和中期・その時代が抱えていた同和問題を痛感することになった。
安置所では事故で犠牲になった生徒の名前が記してあったが、それを読もうとせず、ただ我が子の名前を呼び続ける親の姿があったという。現実としてあった「識字」。識字学級や夜間学校など普及していなかった時代。これも悲しい出来事。
瀬戸大橋を渡る時、私達は過去の惨事を忘れてはならない。
少し遅くなったが5月11日は紫雲丸事故の日だった。